更新日:2014,08,28,Thursday 更新者:ezawa
こんにちは。広報1です。
今年の4月に消費税が8%になり、早数か月経ちました。郵便料金も80円から82円、90円から92円となりました。今は82円切手や92円切手を使っています。
4月に入って、切手は買い控えていましたが、80円切手や90円切手が少し残ってしまったので、何年も使ってなかった1円切手をやっと使えるようになりました。1円切手が使われていたのは、3%の消費税の時期から5%の消費税までなんでしょうね。会社で1円切手はかなり長い間眠っていました。
1円切手は14枚ありましたが、いったいどう使ったらいいの?と前まで思っていました。
今年の4月からはこの1円切手がかなり需用あるものとなりました。
でも1円切手の人は誰だろ?と疑問に思い、調べてみると・・・。
「前島密」という明治時代の政治家で、日本の近代郵便制度を創設した「郵便制度の父」と呼ばれる方でした。「郵便」、「切手」、「葉書」という名称も定めた功績のある人です。
今はもう4枚しか残ってないので、なんだかもったいないような寂しいような気持ちになってしまいました。
前島密ですが・・・
すぐ調べる課の同期の近藤に調べてもらいました。
同期の近藤です。彼は江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。
概略が日本郵政のホームページにありましたので・・・・
1866年(慶応2年)に難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨の「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出しました。
1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言しました。
この意見は大久保を動かし、この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城は皇居となったのです。
1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支を作るよう命じられました。(鉄道計画)
品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことでした。
1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、東京大阪間で官営の郵便事業が開始されました。これは前島密の発議によるものでした。
「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉です。
1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開きました。
その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に郵便報知新聞(のちの報知新聞)を創刊させました。
また、1873年(明治6年)には記事の収集をたやすくするため新聞の原稿を無料で送れるようにしました。
これは今で言う第三種の元になる制度と思います。
江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していましたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立しました。
前島密は、海運の大切なことに着眼し、1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのも、彼の意図によるものでした。
1875(明治8年)、大久保利通は、前島密の建言により、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助した。
1875年(明治8年)1月、郵便為替が始められました。前島密は、イギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと建議しましたが、彼の熱意により、郵便に遅れることわずか4年で、その創始を見ました。
1875年(明治8年)5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始されました。
前島密は、イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、わが国でもこれを実施することにしました。
1876年(明治9年)に視覚障がい者の教育を目指す楽善会(らくぜんかい)に入会した前島密は、杉浦譲(すぎうらゆずる)など同志の人たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くしました。
訓盲院は、現在の筑波大学付属盲学校の前身です。
維新後、前島密は、産業奨励に深い関心がありました。大久保利通は前島の主張を取り入れ、勧業博覧会を内務省の所管として、1877年(明治10年)、東京上野で第一回勧業博覧会を開催し、前島を審査官長に命じました。
1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立されました。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれたものですが、前島密はその創立に参画してこれを助けました。その後、1887年(明治20年)に校長に就任し、校長を退いたのちも、長く同校の発展のために尽くしました。
1890年(明治23年)12月、東京・横浜市内とその相互間ではじめて電話の交換業務が開始されました。
電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていました。
前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚(えのもとたけあき)の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始しました。
1835年 越後国頸城郡津有村下池部(現在の新潟県上越市)生誕
1919年 神奈川県西浦村(現在の横須賀市芦名)で没す
参考文献日本郵政ホームページ
https://www.japanpost.jp/corporate/founder/
一部抜粋
今年の4月に消費税が8%になり、早数か月経ちました。郵便料金も80円から82円、90円から92円となりました。今は82円切手や92円切手を使っています。
4月に入って、切手は買い控えていましたが、80円切手や90円切手が少し残ってしまったので、何年も使ってなかった1円切手をやっと使えるようになりました。1円切手が使われていたのは、3%の消費税の時期から5%の消費税までなんでしょうね。会社で1円切手はかなり長い間眠っていました。
1円切手は14枚ありましたが、いったいどう使ったらいいの?と前まで思っていました。
今年の4月からはこの1円切手がかなり需用あるものとなりました。
でも1円切手の人は誰だろ?と疑問に思い、調べてみると・・・。
「前島密」という明治時代の政治家で、日本の近代郵便制度を創設した「郵便制度の父」と呼ばれる方でした。「郵便」、「切手」、「葉書」という名称も定めた功績のある人です。
今はもう4枚しか残ってないので、なんだかもったいないような寂しいような気持ちになってしまいました。
前島密ですが・・・
すぐ調べる課の同期の近藤に調べてもらいました。
同期の近藤です。彼は江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。
概略が日本郵政のホームページにありましたので・・・・
1866年(慶応2年)に難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨の「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出しました。
1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言しました。
この意見は大久保を動かし、この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城は皇居となったのです。
1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支を作るよう命じられました。(鉄道計画)
品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことでした。
1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、東京大阪間で官営の郵便事業が開始されました。これは前島密の発議によるものでした。
「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉です。
1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開きました。
その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に郵便報知新聞(のちの報知新聞)を創刊させました。
また、1873年(明治6年)には記事の収集をたやすくするため新聞の原稿を無料で送れるようにしました。
これは今で言う第三種の元になる制度と思います。
江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していましたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立しました。
前島密は、海運の大切なことに着眼し、1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのも、彼の意図によるものでした。
1875(明治8年)、大久保利通は、前島密の建言により、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助した。
1875年(明治8年)1月、郵便為替が始められました。前島密は、イギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと建議しましたが、彼の熱意により、郵便に遅れることわずか4年で、その創始を見ました。
1875年(明治8年)5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始されました。
前島密は、イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、わが国でもこれを実施することにしました。
1876年(明治9年)に視覚障がい者の教育を目指す楽善会(らくぜんかい)に入会した前島密は、杉浦譲(すぎうらゆずる)など同志の人たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くしました。
訓盲院は、現在の筑波大学付属盲学校の前身です。
維新後、前島密は、産業奨励に深い関心がありました。大久保利通は前島の主張を取り入れ、勧業博覧会を内務省の所管として、1877年(明治10年)、東京上野で第一回勧業博覧会を開催し、前島を審査官長に命じました。
1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立されました。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれたものですが、前島密はその創立に参画してこれを助けました。その後、1887年(明治20年)に校長に就任し、校長を退いたのちも、長く同校の発展のために尽くしました。
1890年(明治23年)12月、東京・横浜市内とその相互間ではじめて電話の交換業務が開始されました。
電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていました。
前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚(えのもとたけあき)の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始しました。
1835年 越後国頸城郡津有村下池部(現在の新潟県上越市)生誕
1919年 神奈川県西浦村(現在の横須賀市芦名)で没す
参考文献日本郵政ホームページ
https://www.japanpost.jp/corporate/founder/
一部抜粋
| http://www.ezawajimuki.com/blog/index.php?e=541 |
| ブログ::活動報告 | 01:26 PM |
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